備中杜氏の備中とは岡山県の西部地域を占める旧国名であり、特にその南西部地域において杜氏出身者が集中している。
岡山県内の杜氏をはじめとする酒造技能者はほぼこの地域に限られているためこの名称がある。
岡山県の酒自体の歴史は非常に古くからあるようで万葉集に“ふるさとのたまえしめたる吉備の酒 云々”の句が見られる。
このことは杜氏集団の発生と直接関係はないようであるが歴史的に見ても稲作文化の栄えた古代吉備の国から推察すれば、米も水も豊かなこの地域で酒造技術の黎明期にすでに酒造りが行われていたと思われる。
では備中流の酒造りを起こした備中杜氏の開祖は誰かということでは元禄年間(1688~1703)、瀬戸内海沿いの村出身の浅野弥治兵衛、通称忠吉と言う人が回船業に従事していたが台風で難破し漂着した灘地方でそのまま酒屋に入り、酒造技術を学び杜氏となった。
その後その技術をもとに郷里で杜氏を育成したことから跡を継ぐものが相次ぎ、文化年間(1804~1817)には“備中杜氏”の名を得るに至ったと言われている。
その後も徐々に人数が増加し明治20年頃には100名くらいに達し明治32年には備中杜氏組合が設立されるに至った。
そして大正13年には540名に及び備中杜氏の隆盛を極めたのである。
現代では醸造技術の進歩等により各杜氏集団特有の流儀は存在しがたくなってきているが技術の確立していない時代にはかなりの相違があった事と思われる。
過去における備中流の特長は祖白米を原料としながらも端麗な酒造りに特別な技術を持ち全国的に有名であった。
また、進取の気性にあふれ新技術の導入もいち早かった。
原料処理、製麹、酒母、もろみといった管理にそれぞれの時代の技術を取り入れ特徴を出しているようである。
そして、明治40年第1回全国清酒品評会(全国新種鑑評会の前身)において岡山の酒が優等賞で入賞し全国的に備中杜氏の技術の優秀性が知らしめられたのである。
酒造りには古い歴史があり、伝統技術によってはぐくまれている。したがって、これに従事する技能者は、近代産業とは今日もなお著しく異なったものがあり、酒造りに従事する蔵人だちを統率し酒造りにあたる親方は「杜氏(とうじ)」と呼ばれている。
岡山県には「備中杜氏」とよばれる集団があり、文化年間(1804~1814)には広く名を馳せており、技術的に優秀なことは、古くから全国的にも定評があった。
備中流の酒造りの特徴は次のとおりである。
「蒸し」は、強い和釜蒸気によるサバケの蒸し米に仕上げる。「製麹」は仲仕事後、品温の急昇をはかり、相対的に淡白分解酵素力価に比して糖化酵素力価を強めており、現今の吟醸麹造りの源流ともいえる。
「酒母」は、比較的短期間に仕上げて、味は軽快で淡白にする。
「仕込」は酒母歩合は少なく、初添の水を伸ばし、留添までの汲水歩合は少なく随時の追水で適切な発酵管理を行っている。
結果としての「品質」は、“爽やかな香りで旨みはあるが、アミノ酸度は少なく、軽快で、雑味が少ない飲みやすい淡麗型にして旨口の酒質”の酒造りが伝承技術といえる。
しかし、歴史・気候風土を背景にした食文化の相違や、近年では、備中杜氏のほかに、但馬杜氏、南部杜氏、越後杜氏などの流派も参画して岡山の酒造りが行われており、「酒質タイプ」も、全体的には淡麗化傾向の中でも淡麗型から濃醇型まで多彩化している。淡麗辛口および甘口型は県南地域(備前・備中)に、濃醇旨口型は県北地域(美作)に相対的に多く見られるのは、現在でも伝統的な食文化の影響を残しているものといえる。